国武三千雄とは? わかりやすく解説

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国武三千雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/24 01:15 UTC 版)

国武 三千雄(國武、くにたけ みちお、1894年明治27年)3月27日[1] - 1981年昭和56年)11月4日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将陸軍中佐国武輝人(陸士44期、戦後は陸上自衛隊陸将)は実弟。

経歴

福岡県出身[1][3]。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校27期)を卒業し[1]、同年12月、砲兵少尉に任官した[4]。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した[1][3][5]

1930年(昭和5年)8月、砲兵少佐に進級[6]。1933年(昭和8年)8月、砲兵監部部員に就任し[3]、1935年(昭和10年)8月、砲兵中佐に進んだ[6]。1937年(昭和12年)9月、第101師団参謀に発令され日中戦争に出征[1][3]。1938年(昭和13年)3月、砲兵大佐に昇進し第101師団参謀長に就任[3][3]武漢作戦南昌作戦などに参戦した[1]

1939年(昭和14年)11月、参謀本部付に発令され帰国[3]。1940年(昭和15年)2月、陸大教官に転じ、1941年(昭和16年)3月、陸軍少将に進級し陸軍兵器本部総務部長に就任[1][3]。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部付となる[1][3]。同年12月、中部軍参謀長に就任[1][3]。1944年(昭和19年)10月、陸軍中将に進み、1945年(昭和20年)2月、第15方面軍参謀長兼中部軍管区参謀長に就任して、大阪で終戦を迎えた[1][3]

戦後、俘虜米軍飛行士処刑事件の関与でBC級戦犯容疑で逮捕され、1949年(昭和24年)1月、横浜軍事法廷において終身刑の有罪判決を受けた[2][7]1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[8]

1981年11月、脳梗塞により新宿区の東京厚生年金病院(現地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)で死去した[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』275頁。
  2. ^ a b c 『現代物故者事典 1980〜1982』115頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』373頁。
  4. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』369、373頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、580頁。
  6. ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調』766頁。
  7. ^ 『法廷の星条旗』176-177頁。
  8. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会『法廷の星条旗 - BC級戦犯横浜裁判の記録』日本評論社、2004年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調』偕行社、1936年。



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