四方田氏について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:21 UTC 版)
『吾妻鏡』に弘高は、「四方田三郎弘長」として記されているが、そもそも家長を家国と記すなど、人名に誤記が目立つ資料である事を考慮すれば、本来は「四方田二郎弘高」と考えられる(家長の場合、武士の同名の多さと似た名の多さから来る誤記)。文治元年(1185年)10月24日条の項にその名がある事から、この時点ですでに四方田氏を名乗っていたものか(『吾妻鏡』自体は14世紀成立の資料である)。この『吾妻鏡』に出てくる、「弘長」の記述が、荘家文書の系譜の誤伝に繋がったとも考えられる(弘高と記しながらも家弘の長男としたのはこの為か)。また、文治5年(1189年)7月19日条の項に、「庄三郎忠家」と「四方田三郎弘長」の名が共に記されている。三郎の通称がかぶるのは、庄氏と四方田氏を同族(兄弟)と気づかずに記述した為か。また、征夷大将軍の上洛の際には、必ず家長の後ろに名がある事を考えれば、弘高の方が弟だったと言う事が分かる。また、『武蔵七党系図』には、「弘高の子、四方田庄三左衛門左近将監弘長」とあり、弘高の子が弘長であるとしている(この伝承が正しければ、四方田三郎は弘高ではない事になる)。どちらにしても、『吾妻鏡』『荘家文書』『武蔵七党系図』など、諸々の資料には誤記・誤伝と言った混乱が見られる。 この他、文治3年(1187年)4月29日条の項に(3月30日の事として)、伊勢国多々利庄を四方田五郎弘綱知行とある。この他にも、丹生(にぶ)山公田、松永名、に四方田五郎の名が記載されている。
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