周西成との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/27 07:00 UTC 版)
しかし1927年(民国16年)1月、袁祖銘は湖南省常徳で湖南軍の唐生智に殺害されてしまう。上官を失った李燊だったが、何とか南京の蒋介石と会見し、国民革命軍第43軍軍長に改めて任命された。李率いる第43軍は、湖北省西部に駐屯している。4月、貴州省政府主席周西成の下で、省政府委員に任ぜられた。同年10月、蒋に反旗を翻した唐の討伐に李も参戦し、軍功をあげている。 かねてから周西成から貴州省の統治権を奪おうと目論んでいた李燊は、1928年(民国17年)9月、貴州省東部へ進攻する。しかし、周率いる桐梓派の軍勢の前に李燊は大敗してしまった。李は雲南省へ逃れ、竜雲の庇護を受ける。翌年春、蒋介石を支持する竜は、新広西派(新桂系)を支持する周の討伐を命じられ、討逆軍第10路総指揮に任ぜられた。李は竜から前敵総指揮に任命され、周の軍と戦う。5月22日、周を戦死させた。 28日、李燊は貴陽に入城し、翌月17日に、貴州省臨時政務委員会主席に就任している。しかし6月29日になって、雲南省の内戦のために雲南軍は貴州から撤退し、李は孤立してしまった。まもなく、周の後継者と目されていた毛光翔が桐梓派の軍勢をまとめて貴陽を目指して進軍してきたため、7月4日に貴陽から逃走した。その後、李は軍を竜雲に委ね、香港へ逃亡している。1930年(民国19年)7月、反蒋介石の北平拡大会議に参加した。 同年、香港で病没。享年42。
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