名誉裁判所の命令による自殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 06:34 UTC 版)
「チャイコフスキーの死」の記事における「名誉裁判所の命令による自殺」の解説
ソ連の音楽学者、アレクサンドラ・オルロヴァがこの説を主張しており、彼女の調査による詳細が、1980年に世界的に有名な音楽辞典『ニュー・グローヴ』に取り上げられた。 チャイコフスキーは同性愛者であったが、当時の帝政ロシアでは同性愛が違法であり、極刑に処されるのが普通であった。ところがチャイコフスキーはある貴族の甥と男色関係にあった。それを知ったその貴族が激怒し、皇帝に宛てた手紙を書き、それを、チャイコフスキーの友人であり当時高い地位にあったニコライ・ヤコビに手渡した。そこでヤコビはチャイコフスキーも同じく卒業した、かつての法律学校の同級生であり、当時のロシア法曹界の重鎮たちを6名呼び、合計8名で1893年の10月31日(ユリウス暦10月19日)に名誉裁判を開いた。その結果、チャイコフスキーの名誉のために自殺を命令された。チャイコフスキーは11月1日(ユリウス暦10月20日)にオペラの打ち合わせのため、弁護士のアウグスト・ゲルゲと会っているが、この説ではここでゲルゲが自殺用の砒素系の毒薬を持ってきたことになっている。この後自ら服毒する。 チャイコフスキーの一族の中にもこの説の支持者がいるが、1988年のポズナンスキーの論文を皮切りに、多くの疑問や矛盾が指摘されている。
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