吉田家からの下知状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
石徹白豊前は宝暦4年(1754年)1月、三名の部下を引き連れ再上京し、吉田家を訪れた。吉田家で豊前は、東本願寺での恵俊の尋問時に豊前を非難した上村治郎兵衛を、石徹白から追放処分にするよう要請したが、吉田家から「神道家は追放などということはすべきではない」とたしなめられた。しかし豊前はこれで諦めることなく要請を繰り返し、宝暦4年(1754年)2月、吉田家から正式な下知状を交付させることに成功した。 吉田家から石徹白豊前に対して下された下知状には、「石徹白における神祇道を守るため、もし吉田家の意向に逆らうものがあれば、神職を免ずるべきである。諸事神主(石徹白豊前)の指図を受けるように」。との内容が記されていた。この下知状の中でまず吉田家は石徹白の社人支配の意向を明白に示した点が注目されるが、石徹白豊前が吉田家の権威を背景に石徹白の支配を推し進める根拠となり、中でも最も問題となったのが「吉田家の意向に逆らうものがあれば、神職を免ずるべき」の部分を、石徹白豊前は「吉田家の意向に逆らうものがあれば、追放すべき」と、自らにとって都合が良い拡大解釈を行い、実際、豊前に反対する人々を次から次へと「吉田家の命により」石徹白から追放していき、最終的には大騒動へと発展することになった。
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