取水門の移動と宮田用水事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:09 UTC 版)
「宮田用水」の記事における「取水門の移動と宮田用水事件」の解説
しかし、木曽川からの取水は洪水による土砂の堆積が起きると水量が減るという難点に加え、地形的な川筋の変化が齎す(もたらす)河底の侵食は取水の不安定さを招いた。1650年頃には大野村の水門が使用できなくなり、葉栗郡宮田村(現在の江南市宮田町)と黒岩村(現在の一宮市浅井町黒岩)の境付近に新たな水門を設けざるを得なくなった(この水門は、現在の宮田用水と南派川の合流地点である)。 近代に入ると、1924年(大正13年)に大井ダムが完成すると共に木曽川に流れる水量が減少、これに対して用水を利用していた農民が慣行水利権を主張して、発電用水利権を主張した大同電力と争った。結局、1939年(昭和14年)に今渡ダムを建設して用水の取水量を確保することで両者に和解が成立した。
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