医薬分業問題と衛生局長の辞任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:25 UTC 版)
「長谷川泰」の記事における「医薬分業問題と衛生局長の辞任」の解説
1901年「薬律改正問題(医薬分業論)」が起り、長谷川泰は医師数が約3万2千人、薬剤師数が2千5百人と絶対数が足りないので医薬分業は時期尚早である事を理由に反対すると、日本薬局方調査会の丹波敬三、青山胤通、入沢達吉等の委員が総辞職し、長谷川泰は時の総務長官山県有朋に責任を取らされ衛生局長職の辞表を提出させられ、衛生局長就任時の貴族院議員勅選の誓約も入沢達吉の叔父池田謙斎に奪われて精神的失望感を味わう。しかも誓約の立会人芳川顕正逓信相は山県の側近であった。 山県は、北越戊辰戦争時新政府が組織する征東軍の北陸道鎮撫総督府(会津征討越後口総督府軍)参謀で、会津への途中長岡藩に2ヵ月半に及ぶ想わぬ抵抗に遭う。その時の長岡藩家老上席軍事総督が河井継之助で、長谷川泰は河井に3人扶持で雇われた軍医であり、特に山県は松下村塾での親友時山直八をこの戦いで失っており、泰に嫌悪感を久しく持っていた。
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