初期議会と議員辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 08:07 UTC 版)
翌明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。自ら本籍を大阪の被差別部落に移し、「余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり」と自称した兆民は、被差別部落民らの支持を得て、1,352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。また、兆民の二人目の妻である松沢ちのは被差別部落出身だったともいわれるが、実際には代々神官を務めていた旧家の出身とされる。 兆民は民党結成のために奔走し、明治23年(1890年)に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り明治24年(1891年)2月27日に辞職。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を提出した。自身をアルコール中毒と主張する辞職願は僅差で承認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉であるという批判を受ける。
※この「初期議会と議員辞職」の解説は、「中江兆民」の解説の一部です。
「初期議会と議員辞職」を含む「中江兆民」の記事については、「中江兆民」の概要を参照ください。
- 初期議会と議員辞職のページへのリンク