出港準備と逆櫓論争とは? わかりやすく解説

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出港準備と逆櫓論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:28 UTC 版)

屋島の戦い」の記事における「出港準備と逆櫓論争」の解説

2月義経摂津国水軍渡辺党熊野別当湛増熊野水軍そして河野通信伊予水軍味方につけて摂津国渡邊津に兵を集めた出航直前2月16日後白河法皇使者高階泰経渡辺津来て義経に「大将先陣となることはない」と京へ戻るよう法皇の意を伝えている。これに対して義経は「自分には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟あります。」と決意述べている。この頃まだ都の治安維持には義経必要不可欠とみられていたからである。しかし義経はその制止振り切って出陣踏み切ることになる。このころ範頼が九州から引き上げるという話がありこのことが平家勢いづかせることが懸念されていた。 『平家物語』によれば渡邊津出航するにあたり義経は戦奉行梶原景時軍議持ち、景時は船の進退自由にするために逆櫓付けよう提案した。しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退くことを知らぬ猪武者である」と言い放ち義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、わたしは猪武者で結構である」と言い返した逆櫓論争である。景時は深く遺恨持ち、後の頼朝への讒言となり、義経没落つながったとされる。しかし、『吾妻鏡』玉葉』の記述から、このころ景時は範頼軍と行動を共にしていたという見解が有力であり、『平家物語』のこの逸話虚構可能性が高い。

※この「出港準備と逆櫓論争」の解説は、「屋島の戦い」の解説の一部です。
「出港準備と逆櫓論争」を含む「屋島の戦い」の記事については、「屋島の戦い」の概要を参照ください。

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