俳優生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 07:09 UTC 版)
次にアジェが選んだのは俳優になることだった。 1878年、アジェは音楽家や俳優を養成する学校のパリのフランス国立高等演劇学校 (コンセルヴァトワール)を受験する。しかし失敗。翌年、合格する。兵役のために演劇学校も中退する。俳優になりたいという希望も挫折する。24歳の頃、地方回りの役者になる。 1886年に生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォス(本名ヴァランティーヌ・コンパニュン)に出会う。彼女には8歳となる息子ヴァランタン・コンパニュンがいた。 1886年より二人は一緒に旅回りを続け、グルノーブル、ディジョン、パリ郊外で公演をする。これらの詳細はヴァランティーヌの記録から知ることができる。しかし、アジェの名前は記録にはない。 1897年~1902年の間、ヴァランティーヌはラ・ロッシュで公演をするが、アジェは1898年に劇団を解雇され一人パリに戻る。 パリに戻ったアジェは画家になろうとする。41歳である。アジェが描いていたのは風景画である。印象派風の木を描いた油絵画が残されている[5]。しばらくして画家への道を断念する。ただ、画家になることを諦めた後も絵を描いている。
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