侵攻までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「侵攻までの経緯」の解説
高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹、後遼と呼ばれる)が満洲から高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている。その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)、1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きたためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カンは西夏への遠征中であり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイがカアンに即位した後に行われた。 12世紀後半の1170年には高麗で文臣の支配に対して武臣(軍人)によるクーデターが起きて、以降1270年まで武臣政権と呼ばれる執政体制が敷かれた。1196年に崔忠献(チェ・チュンホン)が政権を握ってからは「牛峰崔氏」一族が権力を握った。モンゴルによる高麗侵攻当時、崔氏2代目の崔瑀(チェ・ウ)が政権を運営していた。高麗の武人政権は、1170年にはじまり、江華島でモンゴルと激しい闘いを繰り広けた後に滅びる1270年まで、100年間続いた。
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