伊予鉄道の設立
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1883-1884年(明治16-17年)ころ小林は工部省神戸鉄道局の用材調達を請負っており、大坂に滞在している間阪神間の鉄道旅行を経験していた。小林は松山の道路整備の遅れを鉄道敷設で補うよう意識していたが、当時四国には官設鉄道も建設されてなく思案していた。そのなかで『内務省土木局臨時報告』を入手した。この本にはヨーロッパの小鉄道を紹介しており土木工事用の簡易な軌道(ドコービル)が紹介されていた。小林は詳細を知るため外国人技師を訪ね指導を受けて松山に鉄道を建設することを決意した。 1885年(明治18年)6月小林は鉄道局へ鉄道敷設を出願した。ところが「聴届ケ難シ」として却下されたため、小林は上京して鉄道局長官井上勝、技官松本荘一郎に直談判することになった。当時私設鉄道は日本鉄道、阪堺鉄道の二社のみで、鉄道局は許可するつもりなどなかった。しかし小林の熱意により試みに鉄道敷設が許可されることになったという。 1900年(明治33年)に南予鉄道、道後鉄道と合併したが、小林は両鉄道の社長であった古畑寅造に社長の座を渡し会社を去ることになった。
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