今和泉村・利永村時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/07 01:29 UTC 版)
1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、それまでの今和泉郷の全域にあたる岩本村(現在の岩本)、小牧村(現在の小牧)、新西方村(現在の新西方)、池田村(現在の池田)、利永村の区域より今和泉村が成立し、それまでの利永村は今和泉村の大字「利永」となった。 1948年(昭和23年)9月1日には今和泉村大字利永の区域が今和泉村から分立することとなり、大字利永の区域を以て自治体である利永村が設置された。 1953年(昭和28年)に町村合併促進法が施行され、国が定めた町村の標準規模を8千人程度とする基準を鹿児島県は上回る1万2千人を標準規模として定め、合併計画案が作成された。 鹿児島県が定めた合併計画案には、開聞村(人口:10,950人)と利永村(人口:3,150人)を合併する計画案があり、この計画について開聞村は異議なしとし、利永村については尾下区と利永区は山川町への編入を希望し、開聞村へは上野区のみ編入を希望する旨が山川町・開聞村に通達された。その後開聞村と利永村上野地区の合併申請が鹿児島県に提出され、1955年(昭和30年)3月に開かれた鹿児島県議会第一回定例議会において「揖宿郡利永村を廃止し、その一部の区域を開聞村に編入するの件」が議決された。
※この「今和泉村・利永村時代」の解説は、「開聞上野」の解説の一部です。
「今和泉村・利永村時代」を含む「開聞上野」の記事については、「開聞上野」の概要を参照ください。
- 今和泉村利永村時代のページへのリンク