交渉決裂と再出兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 09:46 UTC 版)
秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたためである。 結局、日本の交渉担当者は「関白降表」という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は「勘合貿易の再開」という条件のみであると伝えられた。「秀吉の降伏」を確認した明は朝議の結果「封は許すが貢は許さない」(明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない)と決め、秀吉に対し日本国王(順化王)の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5年(1596年)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。なお、沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑される。
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