乂安(ゲアン)の解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:23 UTC 版)
明軍の攻勢を前に、阮隻は清化の山中を脱出し、土地が広く地勢が険しい乂安に軍を移し、そこから北に戻って東都を攻略することを提案した。1420年に黎利たちと合流していた阮隻は清化の貧農出身で、清化南部で蜂起を指導し、乂安北部で活動していた経験があった。 黎利は阮隻の計画を受け入れ、山道沿いに乂安西部へと行軍した。1424年10月12日、義軍は多矜(タインホア省トースアン県)の明軍駐屯地を急襲し、一撃のもとに勝利をおさめた。次いで、藍川上流の茶麟城を降伏させた。勝利の余勢をかって、義軍は可留(ゲアン省アインソン県)に進撃し、計略を仕掛けて可留・蒲隘で陳智軍を撃破した。短期間のうちに乂安の大部分が解放され、明軍は乂安城に撤退して籠城しなければならなくなった。黎利は乂安城を堅く包囲している間に演州に攻め込んで勝利し、清化へと進撃した。これらの戦闘により演州、清化地域の全てが1ヶ月も経たないうちに解放された。
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