丹羽正安とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 丹羽正安の意味・解説 

丹羽正安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/09 16:06 UTC 版)

 
丹羽 正安
時代 戦国時代後期 - 江戸時代前期
生誕 永禄9年(1566年
死没 寛永12年10月8日1635年11月17日
別名 左平太(通称
戒名 道空(法名
墓所 東京都文京区湯島麟祥院
幕府 江戸幕府旗本
主君 織田信忠信雄豊臣秀吉秀次→秀吉→秀頼徳川家康秀忠
氏族 丹羽氏
父母 父:丹羽正明
内蔵助、次郎右衛門、正長、女子(島田和氏妻)、女子(長野広路妻)、女子(藤方忠英妻)
テンプレートを表示

丹羽 正安(にわ まさやす)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将旗本

生涯

丹羽正明の子として生まれる。父の正明は尾張国丹羽郡に住み、織田信長に仕えていた[1]

正安ははじめ織田信忠、次いで信雄に仕え、天正12年(1584年)の長久手の戦いでは敵の首級を挙げた[1]

その後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、千石を知行[2]。その後、豊臣秀次に仕えたのち、秀吉に復仕して使番を務めた(『吉備温故秘録』)[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで失領、その後、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣大坂城に入城した(『土屋知貞私記』)[2]。大坂落城後は徳川家康に召し出されて伊勢国三重郡内に千石を与えられ、その後、徳川秀忠に仕えて御書院番を務めた[3]

寛永12年(1635年)10月8日、死去。享年71。

脚注

  1. ^ a b 堀田 1923, p. 597.
  2. ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p. 187.
  3. ^ 阿部 & 西村 1990, p. 611.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  丹羽正安のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「丹羽正安」の関連用語

丹羽正安のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



丹羽正安のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの丹羽正安 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS