丹後半島に残る藤織りの痕跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:46 UTC 版)
「藤織り」の記事における「丹後半島に残る藤織りの痕跡」の解説
この項目では、世屋と山を共有する駒倉などの近隣地域、及び、丹後半島に残る藤織りの痕跡について述べる。 宮津市と京丹後市弥栄町の境の山間部に位置した駒倉集落では、明治時代には、集落におよそ43軒の民家があり、そのほとんどの家が藤織りをする、上世屋と並ぶ藤織り生産地だった。織りあげたノノ(藤布)は畳の縁布として、宮津に売りに出した。しかし、1963年(昭和38年)の豪雪(通称「サンパチ豪雪」)を機に離村が進み、1972年(昭和47年)秋に廃村となった。駒倉最後の藤織りの織り手であった小西ぬいは、その最後の年、1972年(昭和47年)まで藤織りを続けた。 2018年現在、宮津市に含まれる地域では、世屋川の下流域に位置する日置村、 養老村波見に、藤織りの痕跡が残る。 京丹後市弥栄町の味土野集落でも、昭和の初め頃まで高齢者の隠居仕事に藤織りをしていた。 京丹後市久美浜町の野中では、古くは地機(坐り機)で藤織りをした。藤布でナナメキレの袋などを作り、米袋とした。麻織りもしたが、麻布はぜいたく品と見なされていた。
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