丸野彌高とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 丸野彌高の意味・解説 

丸野弥高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 13:46 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

丸野 弥高(まるの やこう[1]1900年3月20日[2]-1976年3月22日[3])は、日本国文学者明治大学名誉教授

人物

鹿児島県鹿児島市平之町に生まれ、鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)1918年3月に卒業[2]。同校3年次に1年休学しており、その間、文学書を読みあさっていた[4]。また、当時の校長の方針で旧制第二鹿児島中では国語の副読本に田山花袋の随筆「椿」が使われており、この頃から自然主義文学に興味を抱く[4]

1926年3月に第七高等学校造士館 (旧制)を、1930年東京帝国大学文学部国文学科をそれぞれ卒業[2]。旧制第七高校では文芸部に入っていた[4]。また、学生時代から「潮騒」主宰の太田水穂に師事して短歌をつくる[4]

1931年3月、東京帝国大学大学院を中退し、同年6月から1940年5月まで東京女子体育専門学校講師、1939年11月から1944年3月まで東京慈恵会医科大学予科講師[2]1941年4月から明治大学予科で講師を務め、1942年8月に同予科教授に就任[2]1949年3月、学制改革により新制明治大学商学部の教授となる[2]1952年4月以降は同大学の文学部日本文学科の教授も定年まで兼担[2]1958年4月からは東洋女子短期大学講師も併任[2]1968年春に明治大学を定年退職し、名誉教授、兼任講師となる[2]1976年、肺がんで逝去[3]

編著書に『新修日本叙情詩歌』(共編著、桜楓社、1978年)の他、いくつかの国語学習参考書がある。

脚注

  1. ^ 国立国会図書館典拠データサービス 2019年9月29日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i 『明治大学教養論集 51号』(1969年)115-121頁
  3. ^ a b 訃報欄『朝日新聞』1976年3月23日朝刊、13版、23面
  4. ^ a b c d 南日本新聞社・編『郷土人系 上』(春苑堂書店、1969年)418頁



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「丸野彌高」の関連用語

丸野彌高のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



丸野彌高のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの丸野弥高 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS