丸山完二とは? わかりやすく解説

丸山完二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 03:29 UTC 版)

丸山 完二
基本情報
国籍 日本
出身地 兵庫県西脇市
生年月日 (1940-01-05) 1940年1月5日(85歳)
身長
体重
176 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1962年
初出場 1962年
最終出場 1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ヤクルトアトムズ
    ヤクルトスワローズ (1972 - 1994)

丸山 完二(まるやま かんじ、1940年1月5日 - )は、兵庫県西脇市出身の元プロ野球選手内野手外野手)・コーチ

ファッションデザイナー丸山敬太は実子。

経歴

西脇高校卒業後は1958年立教大学へ進学し、東京六大学野球リーグでは1年次の同年、2年次の1959年に3度の優勝を経験。3年次の1960年秋季リーグでは打率.365で首位打者となり、一塁手としてベストナインにも選出された。リーグ通算64試合出場、237打数68安打、打率.287、0本塁打、25打点を記録。大学同期に青野修三寺本勇がいる。

1962年国鉄スワローズへ入団。1年目の同年は開幕直後から一塁手、外野手として起用され、一番打者に定着。規定打席(28位、打率.210)にも達して新人王候補にも挙がったが、城之内邦雄にタイトルを奪われた。この年、当時国鉄のエースで強打者でもあった金田正一は打席に立って4度敬遠されているが、次打者となったのはいずれも丸山であった。結果は3打数3安打1四球で、4度目の9月24日広島戦は11回裏1死二塁の場面で広島は金田を敬遠。延長では3度目、サヨナラの場面では7月7日に続く2度目であったが、丸山は大石清からサヨナラ二塁打を放っている。金田敬遠、丸山勝負は1963年の中日戦の9回サヨナラの場面もあるが、この時は三塁ゴロに倒れている[1]

1963年も移籍入団の高林恒夫と立教コンビを組みチャンスメーカーとして活躍。1964年には5月に故障して長期欠場を余儀なくされるが、7月には復帰。その後もレギュラーとして活躍を続けるが、若手の台頭で出番が減った。1968年に学生時代に経験のある三塁手にコンバートされる。危惧された守備も堅実にこなし、城戸則文の後継として定位置を獲得、数少ない外野から内野へのコンバート成功例となった。1970年には外野手に復帰する。1971年限りで現役を引退。

引退後はヤクルトで二軍守備・走塁コーチ(1972年 - 1975年)→一軍外野守備・走塁コーチ(1976年 - 1979年)→一軍守備コーチ(1980年 - 1982年)、一軍守備・走塁コーチ(1983年, 1987年 - 1990年)、二軍総合コーチ(1984年 - 1985年)→一軍作戦コーチ(1986年)、ヘッドコーチ(1991年 - 1994年)を歴任。1978年セ・リーグ及び日本シリーズ初優勝時もコーチとして広岡達朗監督を支えた。当時は三塁コーチを担当し、日本シリーズ第7戦、上田監督が1時間19分に渡り、猛抗議をした大杉の放ったホームランでは三塁を回る大杉とハイタッチする写真が幾つかの雑誌に掲載されている。

1995年からはフロント入り。

2002年に編成部長。

2003年に球団調査役となる。

2005年一杯で44年間所属したスワローズを定年により退職。プロ入り後、スワローズ・アトムズから一度も球団を離れることなくで活躍した丸山は、この年スワローズOB会2代目会長に就任した(初代会長は田口周)。また、ヤクルト球団及びOB会によって組織されたNPO法人「つばめスポーツ振興協会」の理事長にも就任した。NPB12球団ジュニアトーナメントではヤクルトジュニアの監督を務めており、第1回大会(2005年)では優勝した。現在は少年野球チーム「東京神宮シニア」監督[2]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1962 国鉄
サンケイ
アトムズ
ヤクルト
126 508 466 33 98 18 2 1 123 23 11 10 5 1 34 0 2 73 8 .210 .266 .264 .530
1963 124 455 415 48 102 22 3 3 139 32 15 8 14 2 22 0 2 37 7 .246 .286 .335 .621
1964 84 259 245 29 68 14 1 1 87 9 4 8 5 0 9 0 0 35 8 .278 .303 .355 .658
1965 122 409 372 28 91 12 4 2 117 16 4 9 9 2 24 0 2 33 10 .245 .293 .315 .607
1966 124 508 461 47 105 12 3 4 135 19 6 11 8 0 31 0 8 54 9 .228 .288 .293 .581
1967 105 295 261 34 64 11 2 4 91 26 5 5 2 4 28 0 0 38 3 .245 .314 .349 .663
1968 123 463 406 51 101 16 3 6 141 30 10 5 10 1 38 1 8 61 7 .249 .325 .347 .672
1969 113 337 299 30 61 10 0 9 98 18 6 4 7 2 28 0 1 36 7 .204 .273 .328 .600
1970 89 198 179 18 40 9 0 4 61 14 0 4 5 0 12 0 2 30 7 .223 .280 .341 .621
1971 22 31 30 0 3 0 0 0 3 0 0 0 0 0 1 1 0 5 0 .100 .129 .100 .229
通算:10年 1032 3463 3134 318 733 124 18 34 995 187 61 64 65 12 227 2 25 402 66 .234 .290 .317 .607
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 国鉄(国鉄スワローズ)は、1965年途中にサンケイ(サンケイスワローズ)に、1969年にアトムズに、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

記録

  • 1000試合出場:1970年10月8日 ※史上148人目

背番号

  • 29 (1962年 - 1963年)
  • 8 (1964年 - 1971年)
  • 69 (1972年 - 1985年)
  • 80 (1986年 - 1994年)

脚注

関連項目


丸山完二(まるやま かんじ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 19:45 UTC 版)

虹を呼ぶ男」の記事における「丸山完二(まるやま かんじ)」の解説

ヤクルトコーチ七夕詐欺師疑い彼の入団後化けの皮を剥ごうと策を弄する七夕がどれだけの結果残してもその疑い晴れることがなかった。

※この「丸山完二(まるやま かんじ)」の解説は、「虹を呼ぶ男」の解説の一部です。
「丸山完二(まるやま かんじ)」を含む「虹を呼ぶ男」の記事については、「虹を呼ぶ男」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「丸山完二」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「丸山完二」の関連用語

丸山完二のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



丸山完二のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの丸山完二 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの虹を呼ぶ男 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS