中国南朝史書の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 15:29 UTC 版)
中国南朝史書の記述出典本文『宋書』巻九十七・東夷百済国伝 百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。宋書/卷97 百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁のある襄平(現在の中国の遼陽地方)の東一千余里のところにあった。その後高句麗はほぼ遼東郡を支配し、百済は遼西郡をほぼ支配した。このとき百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である。 『南斉書』巻五十八・列伝第三十九 魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木幹那率衆襲撃虜軍,大破之。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。南齊書/卷58#東夷 魏は騎兵数十万人を動員して百済を攻撃し、その国境の中に攻めこんだ。東城王は沙法名、賛首流、解礼昆、木干那などを送って魏の大軍を大破した。 『梁書』巻五十四列伝四十八諸夷・東夷諸戎・百済 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。梁書/卷54#東夷諸戎 百済が遼西・晋平の二つの郡を占め、百済郡を設置した。
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