中世・江戸時代の「井草」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 08:38 UTC 版)
「井草」はもともと、現在の杉並区北部一帯を指す地名であった。中世、武蔵国多摩郡に属する井草村の範囲は、現在の井草・上井草・下井草をはじめ、今川・善福寺・桃井・清水の全域、上荻・西荻北の一部に及ぶ。善福寺一丁目にある井草八幡宮は、「井草」の地名がより広い地域を指していた当時の名残である。 徳川家康が江戸に入部すると、板倉重宗や井上正利が井草村の領主となった。 1645年、井草村は旗本今川直房の所領となり、幕末まで今川氏の知行地となった。1649年に観泉寺(現・今川二丁目)に与えられた朱印状に「上井草村」と記されていることから、この時期までに井草村は上井草村・下井草村と東西に二分されたとみられる。江戸時代には上下井草村を合わせて「井草村」と称したり、下井草村を単独で「井草村」と称したりすることもあった。現在の井草は、江戸時代における下井草村の一部にあたる。
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