両税法の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 02:43 UTC 版)
律令制の根幹であった均田制を自ら捨てたこと(ただし形骸のみはその後も残った)は、別の見方からすれば大土地所有を公認したことになる。これ以降の唐では土地の兼併が更に進み、荘園は巨大化する。 また銭納を原則としたことで農民に貨幣を持つことを義務付けることになり、商業活動を更に活発にする。だが、その反面において全国の農民が納税用の貨幣を持つために一斉に作物を換金する必要性に迫られて物価の下落や悪徳商人による買い叩きなどが生じた。そこで809年には、例外的措置として一定金額を納めた者については公定価格に基づく物納との折納を容認し、821年にはこれが拡大された。更に五代十国時代下では(貨幣制度が混乱した事もあって)絹帛と貨幣の事実上の2本立てとなり、ついで北宋の1000年には絹帛も正税に加えて、これ以後は銭納原則は事実上放棄されて納税金額を元にして算出される絹帛による物納制へと変わっていった。更に明では積極的な農業重視政策を背景に穀物による納税を基本とした。 その後の五代十国時代・北宋・元・明と両税法は受け継がれていくが、明代中期になると付加税が増え、不均衡が過大となり、宰相張居正により一条鞭法が施行され、両税法は廃止された。
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