世祖以降 (1419〜1906)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:40 UTC 版)
「日本統治時代の朝鮮」の記事における「世祖以降 (1419〜1906)」の解説
1455年以降、ようやく「経国大典」が編纂され「戸典」(戸籍条 1460年)が完成した。1592年の帳籍「山陰戸籍」では男女の奴婢、逃亡者に至るまで記録があり徹底されたことがわかる。それでも全土の数字が出たのは1639年以降でたびたび自然増ではない伸びを示すため、登録方法による揺れ(軍役を目的とする「號牌制」が廃止と復活を繰り返しているなど)があったと考えられる。その上で李氏朝鮮時代の1800年代の人口は最高値である1807年の7561403人から推計値750万人とされてきた。 ただし日本による以降の調査で人口が急増していることからも実際は李氏朝鮮末期でも1000万人前後の人口があった可能性はある。ちなみに前述の1906年人口を基準とした三国時代の年平均人口増加率による1543年の推定人口は1072万人である。
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