上田太郎 (陸軍軍人)とは? わかりやすく解説

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上田太郎 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/09 16:00 UTC 版)

上田 太郎
生誕 1868年11月15日
日本 美濃国不破郡矢道村
(現・岐阜県大垣市
死没 (1937-05-16) 1937年5月16日(68歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1888年 - 1924年
最終階級 陸軍中将
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上田 太郎(うえだ たろう、1868年11月15日明治元年10月2日[1]〉- 1937年昭和12年〉5月16日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2][3]

経歴

美濃国不破郡矢道村[4]青墓村赤坂町を経て現岐阜県大垣市矢道町)で上田半右衛門の長男として生まれ、1909年(明治42年)に家督を相続した[3]

1888年(明治21年)岐阜県第一中学校(現岐阜県立岐阜高等学校)を卒業[4]1892年(明治25年)7月、陸軍士官学校(3期)を卒業し、1893年(明治26年)3月、陸軍歩兵少尉に任官[1][2]日清戦争に従軍[3]1901年(明治34年)11月、陸軍大学校(15期)を卒業し参謀本部に配属された[5]日露戦争では大本営兵站総監部副官として出征した[1]

以後、遼東守備軍参謀関東都督府陸軍部参謀、第4師団參謀などを経て[3]1912年(明治45年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第72連隊長に就任[2][3]第13師団参謀長を経て、1917年(大正6年)8月、陸軍少将に昇進し歩兵第11旅団長となる[1][2][3]

第5師団留守司令官を経て、 1921年(大正10年)7月、陸軍中将に進み第19師団長に親補された[1][2][3]1924年(大正13年)2月に待命となり、同年同月、予備役に編入された[1][2][3]

その後、岐阜県大垣市馬場町に居住し、満洲事変後は各地で軍事後援、講演を行った[4]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』260頁。
  2. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』80頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第8版』ウ18頁。
  4. ^ a b c 『西濃之大勢誌』「西濃之人物」3頁。
  5. ^ 『日本陸海軍総合事典 第2版』551頁。

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』1928年。
  • 『西濃之大勢誌』中央新聞社、1935年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。



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