上村としての瀬々串
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 06:25 UTC 版)
江戸時代の瀬々串は中名村と共に「上村」の一部とされたり、「瀬々串村」の1村として把握されている場合があった。「三州御治世要覧」には喜入郷のうちの瀬々串村という村名は記載されているものの村高は掲載されていない。喜入氏文書によれば寛永年間(1624年~1644年)末ごろに上之村の北部が瀬々串村として分村したとされる。 しかし、元禄11年(1698年)に薩摩藩が領内の郡郷について村里の広狭地形を製図することとなり、検分が行われた。薩摩藩の検使は「瀬々串は一村である。正保目録でも瀬々串村として一村を形成しているので、喜入は上村・下村・瀬々串村の三村とすべきである」と申し渡したが、喜入郷の役人が検地帳や宗門改を根拠に瀬々串村は上村に属すると主張した。喜入肝付氏当主肝付久兼は絵図所に対して上村・下村の2村である旨を申し立て、結果として瀬々串村の独立は認められず、上村・下村の2村として決着した。ただし、村としてではなく「在」と呼ばれる薩摩藩の行政区画として瀬々串は置かれていたとされる。江戸時代の後期には庄屋も置かれた。 享保9年(1724年)には薩摩藩の領域内において藩主の通路に休憩所などを設置することとなり、瀬々串宮ノ下に御茶屋が設置された。明治3年(1870年)に「在」を廃止し在であった瀬々串と中名を併せて上村とし戸長が配置された。 江戸時代に薩摩藩によって作成された地誌である「三国名勝図会」には瀬々串について以下のように記述されている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}瀬々串 上之村の海邊にありて、小村落なり、此浦より眺望すれば、海を隔て隅州の連山縹緲として、畫のごとく、其中に高隈嶽秀出し、櫻島嶽海中に聳へ、鳥島沖子島其側に侍立し、風帆賈舶、煙際に來往し、風景絶勝なり、 —三国名勝図会巻二〇巻
※この「上村としての瀬々串」の解説は、「喜入瀬々串町」の解説の一部です。
「上村としての瀬々串」を含む「喜入瀬々串町」の記事については、「喜入瀬々串町」の概要を参照ください。
- 上村としての瀬々串のページへのリンク