上三栖村庄屋・村長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 07:18 UTC 版)
天保8年(1837年)8月26日紀伊国牟婁郡上三栖村に生まれた。弘化4年(1847年)5月坂本弥平や兄勝之助に習字、児島熊仙に漢籍を学んだ。安政4年(1857年)8月兄が死去すると、10月嗣子となり、文久元年(1861年)4月上三栖村庄屋に就任した。 慶応3年(1867年)1月紀伊田辺藩士熊代繁里に入門し、明治5年(1872年)4月まで田辺まで2里の道程を通学し、国学・和歌を学んだ。 明治2年(1869年)11月庄屋が廃止され、上三栖村長・下三栖村上組村長に任命された。この時藩に「寺院合併建白書」を提出するも、却下された。明治3年(1870年)4月上三栖村長を辞職し、明治4年(1871年)2月田辺藩貧院頭取。4月上三栖村長に復帰し、下三栖村上組村長を兼任したが、8月再び上三栖村長を辞職し、長瀬村長に転じた。明治5年(1872年)3月貧院は廃止された。
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