三角州での勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 02:07 UTC 版)
海戦が続く中、陸軍がトンキン戦線で清国軍と黒旗軍への攻撃を繰り返していた。トンキン遠征部隊の総司令官・シャルル・テオドール・ミロー将軍が病に倒れたため、1884年9月に副官のブリエール・ド・リール将軍に交代。紅河デルタ付近への大規模な清国軍の攻撃に対処した。 1884年9月、広西軍の遠征隊がランソンを越えフランス軍の砲艦2隻を奇襲、フランス軍は敵が本格的に集合する前に3,000人の兵士を集め反撃した(ケップ攻勢(英語版))。白兵戦を含む激しい戦いの末、三派に分けられたフランス軍は各所で広西軍を撃破した。 敗れた広西軍は、後方のドンソン(東山)に撤退。対するフランス軍もケップ攻勢で得た拠点(ドンソンから2,3マイル)に陣地を築いて広西軍と戦闘。11月19日に黒旗軍2,000名が移動中のフランス軍700名を攻撃した(Yu Ocの戦い(英語版))が撃退された。更に広東省に拠点を持つ清国の民兵部隊を紅河デルタから追い払うことにも成功して、デルタ東方の掌握を達成した。平行してアンナン(安南)のベトナム人民兵部隊の掃討も完了し、フランス軍は紅河デルタ占領へと駒を進めた。
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