三浦家の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 07:39 UTC 版)
永正9年(1512年)、宗瑞は兵を挙げ、岡崎城に攻撃を開始した。敵せずと見た道寸は弟の道香の守る住吉城(現逗子市)に退却し、抵抗を続けた。しかし道香も戦死した。道寸はさらに三浦半島の新井城へ退却し、扇谷上杉家へ援軍を要請した。これを受けて援軍に向かった太田資康(太田道灌の子で道寸の娘婿)もまた、伊勢勢に迎撃されて討ち死にした。道寸・荒次郎(三浦義意)父子は新井城に籠城し、伊勢軍がこれを包囲した。新井城は三方を海に面した天然の要害であり、三浦水軍の軍事力を背景に持つ新井城の守りは堅固で、三浦父子は伊勢軍の攻撃を3年間に渡って凌いでいたが、永正13年(1516年)ついに落城し、家臣ともども討ち死にした。落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって港一面が血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が油壺と名付けられたと伝わる。三浦市三崎町に道寸の墓が残る。 『北条五代記』によれば、歌人・東常縁の指導を受けたともいわれている義同は、「うつものも 討たるる者も かはらけ(土器)よ くだけて後は もとのつちくれ(土塊)」という辞世の句を詠んで切腹した。『北条五代記』より前に成立したとみられる『北条記』には、この話は無く、「夜もすがら最後の酒盛りし、明ければ永正15年(1518年)7月11日辰の剋に打出、小田原の陣を二町ばかり追立て切まくり、枕を双べて討死す」と記されている。
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