七将の三成邸襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 15:39 UTC 版)
秀吉の死後、豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が表面化する。五大老の一人前田利家は二派の調停に努めたが、1599年(慶長4年)閏3月3日に死去した。利家の死去によって両派の対立を仲裁するものがいなくなったため、さらに両派の確執が増した。 朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた武断派は、大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。しかし三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れた。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られており、この事件は私戦でなくこれまでの政争の一環として展開されていて、事件の対立構造は七将と三成ではなく、徳川方と反徳川方勢力だったとする指摘もある。
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