ヴワディスワフ・ジュムダとは? わかりやすく解説

ヴワディスワフ・ジュムダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 04:27 UTC 版)

ヴワディスワフ・ジュムダ
名前
ラテン文字 Władysław Żmuda
基本情報
国籍 ポーランド
生年月日 (1954-06-06) 1954年6月6日(69歳)
出身地 ルブリン
身長 187cm
体重 85kg
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1970-1972 モトル・ルブリン 45 (0)
1972-1974 グワルディア・ワルシャワ 34 (0)
1974-1980 シロンスク・ヴロツワフ 210 (5)
1980-1982 ヴィジェフ・ウッチ 67 (1)
1982-1984 エラス・ヴェローナ 7 (0)
1984 ニューヨーク・コスモス 4 (0)
1984-1987 クレモネーゼ 43 (1)
代表歴
1973-1986 ポーランド 91 (2)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1976 モントリオール サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヴワディスワフ・アントニ・ジュムダポーランド語: Władysław Antoni Żmuda, 1954年6月6日 -)は、ポーランドの元サッカー選手。ポジションはDF。読みはヴワディスワフ・ジュダ(太字は強勢で、人によってはわずかに長音となる; ポーランド語発音: [vwaˈd̪ɨs̪waf ˈʐmud̪a])。

経歴

ポーランド代表として国際Aマッチ91試合に出場した[1]。また4度のワールドカップ(1974 FIFAワールドカップ1978 FIFAワールドカップ1982 FIFAワールドカップ1986 FIFAワールドカップ)に参加し、21試合に出場した。この記録はポーランド史上最多記録であり、ワールドカップ史上においても、ドイツのローター・マテウスミロスラフ・クローゼ、イタリアのパオロ・マルディーニ、に次ぐ第4位の記録(ペレディエゴ・マラドーナジャンニ・リベラらの名手と並ぶ)である。

クラブでは1982年に海外移籍が認められ、イタリアのエラス・ヴェローナへ移籍するが、怪我に苦しみ、1984年にはアメリカニューヨーク・コスモス1985年からはセリエBのクレモネーゼでプレーを続けた。

引退後は指導者の道へ進み、ポーランドU-23代表コーチやポーランド代表コーチを務め、2002年ワールドカップではポーランド代表監督のイェジィ・エンゲルのアシスタントを務めた。

脚注

  1. ^ Reprezentanci”. kadra.pl. 2014年6月28日閲覧。

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