カジミエシュ・デイナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 21:08 UTC 版)
|
|||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| |
|||||||||||||||||
| 名前 | |||||||||||||||||
| 愛称 | カカ | ||||||||||||||||
| ラテン文字 | Kazimierz Deyna | ||||||||||||||||
| 基本情報 | |||||||||||||||||
| 国籍 | |
||||||||||||||||
| 生年月日 | 1947年10月23日 | ||||||||||||||||
| 出身地 | スタロガルド・グダンスキ | ||||||||||||||||
| 没年月日 | 1989年9月1日(41歳没) | ||||||||||||||||
| 身長 | 178cm | ||||||||||||||||
| 体重 | 76kg | ||||||||||||||||
| 選手情報 | |||||||||||||||||
| ポジション | MF、FW | ||||||||||||||||
| 利き足 | 左足 | ||||||||||||||||
| クラブ1 | |||||||||||||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||||||||
| 1966 | |
1 | (0) | ||||||||||||||
| 1966-1978 | |
390 | (141) | ||||||||||||||
| 1978-1981 | |
38 | (12) | ||||||||||||||
| 1981-1987 | |
256 | (152) | ||||||||||||||
| 1987-1989 | |
||||||||||||||||
| 代表歴 | |||||||||||||||||
| 1968-1978 | |
97 | (41) | ||||||||||||||
|
|||||||||||||||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
|||||||||||||||||
カジミエシュ・デイナ(Kazimierz Deyna, 1947年10月23日 - 1989年9月1日)は、ポーランド出身の同国代表サッカー選手。ポジションはMF、FW。
経歴
地元のヴォクニアシュ・スタロガルド・グダンスキでサッカーを学び、1961年にŁKSウッチに入団して選手キャリアをスタートさせる。元々はFWの選手で、1968年にポーランド代表に選出されると、1972年ミュンヘンオリンピックでは9得点を上げ得点王に輝くと共に優勝に導いた[1]。
1974年のワールドカップ西ドイツ大会ではエースのヴォジミエシュ・ルバンスキが欠場した事で中盤に下がりゲームメイクを担当する事になった。大会に入ると、デイナの放つ鋭いロングパスからFWのグジェゴシ・ラトー、ロベルト・ガドハが俊足を飛ばす高速カウンターサッカーが見事に機能。1次リーグ最終戦、イタリア戦では、優勝候補の一角と目された強豪を相手に44分に決勝点をあげ[2]2-1で破る活躍を見せるなど、この大会の3位入賞の原動力となった。
ポーランド代表としては1978年のワールドカップアルゼンチン大会でもプレー。この年に代表から退くまで国際Aマッチ97試合に出場41得点を記録した。
クラブレベルでは1978年にイングランドのフットボールリーグ・ディビジョン1(当時の最上位リーグ)のマンチェスター・シティFCへ移籍。1981年からは北米サッカーリーグのサンディエゴ・サッカーズへ移籍し、1984年に同リーグが消滅後もインドアサッカーの選手としてアメリカに留まってプレーを続けていた。1989年9月1日、カリフォルニア州サンディエゴで自動車事故により死去。41歳没。
獲得タイトル
代表
- オリンピック:1回 (1972)
クラブ
脚注
外部リンク
- Kazimierz Deyna Official Website(ポーランド語)
- Football-Heroes.net(英語)
- カジミエシュ・デイナ - 90minut.pl (ポーランド語)
- Kazimierz Deyna (youtube.com)
- Kazimierz Deyna - 1947-1989 (youtube.com)
|
|
|---|
|
|
|---|
固有名詞の分類
- カジミエシュ・デイナのページへのリンク