ヴワディスワフ・コンスタンティ・ヴァザとは? わかりやすく解説

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ヴワディスワフ・コンスタンティ・ヴァザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/29 17:01 UTC 版)

ヴワディスワフ・コンスタンティ(下)と5歳ほど年少の異母弟ジグムント・カジミェシュ王子、ピーテル・ダンケルツ・デ・レイ英語版画、1647年頃、プラハ国立美術館蔵。兄がしゃがんだか、弟が台の上に載った状態で描かれている

ヴワディスワフ・コンスタンティ・ヴァザWładysław Konstanty Waza, 1635年頃 ワルシャワ - 1698年3月19日 ローマ)は、選挙王制期のポーランド・リトアニアの王・大公ヴワディスワフ4世の非嫡出子。ヴァーゼナウ伯爵Graf/hrabia Wasenau)と称した。

ヴワディスワフ4世が独身時代にルヴフの商人の娘ヤドヴィガ・ウシュコフスカ英語版の間にもうけた非嫡出男子である[1][2]。父王は最初の正妃ツェツィーリア・レナータとの間に嫡出男子ジグムント・カジミェシュをもうけたが、王家の跡取りと目された王子は1647年夭折した。翌1648年に父王も死に、身寄りを失い欧州諸国を転々とした[3]。やがてローマで暮らしていた又従姉のスウェーデン元女王クリスティーナの庇護下に入り、女王の衛兵隊長となったほか、教皇アレクサンデル8世及びインノケンティウス12世の教皇侍従の肩書も与えられた[1]

1689年に死去したクリスティーナ女王からの財産分与の受け取りを固辞し、貧窮の晩年を過ごした。1698年に63歳頃で死去したが、ヴワディスワフはヴァーサ家最後の男系男子であると同時に、ポーランド王ジグムント1世と王妃ボナ・スフォルツァに始まるポーランド王統の最後の世代の代表者だった[3]。ジョヴァンニ・フランチェスコ・アルバーニ枢機卿(後の教皇クレメンス11世)によって、ローマ市内サンティッシメ・スティマエ・ディ・サン・フランチェスコ(聖フランチェスコ聖痕)教会英語版聖具室扉付近の壁に、ヴワディスワフの墓碑銘が設置された[3]

引用・脚注

参考文献




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