ヴィラッジオ・デュカ・デグリ・アブルッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:41 UTC 版)
「ジョハール」の記事における「ヴィラッジオ・デュカ・デグリ・アブルッチ」の解説
それから間もなくイタリア領ソマリランドが成立し、イタリアはこの新しい植民地に農場などを作った。サヴォイアは1911年に新たに農民を入植させ、1920年にこの村にイタリアの新しい農業技術を導入し、さらに村の名を自身の称号にちなんでアブルッツィ村(ヴィラッジオ・デュカ・デグリ・アブルッチ、Villaggio Duca degli Abruzzi)と名づけた。1920年代にはダムが建設され、住民の立ち退きによるトラブルが起こっている。1926年には16の集落、3000のソマリ族、200のイタリア人が住んでいた。この村はシェベリ川沿いにあり、乾燥地帯がほとんどであるソマリアにしては珍しくバナナ、綿、砂糖が収穫できた。ジョハール周辺は第二次世界大戦まで、イタリア領ソマリランドで最も農業改革が進んだ地域となり、若干の食品産業が生まれるまでになった。 1940年、アブルッツィ村(略称ヴィラブルッチ)の人口はイタリア系ソマリ人(英語版)3千人を含めた1万2千人となり、簡単な産業も生まれた。イタリア人はモガディシュとの間にモガディシオ・ヴィラブルッチ鉄道を敷き、その後30年間バナナやコーヒー等をヨーロッパに輸出した。
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