ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 00:27 UTC 版)
「ユルゲン・シュトロープ」の記事における「ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧」の解説
1943年4月19日に「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック親衛隊上級大佐がワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧に失敗したことでヒムラーは代わってシュトロープを「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者に任じ、鎮圧部隊の指揮を任せた。 シュトロープは焦土作戦を実施してワルシャワ・ゲットーを文字通り火の海にし、蜂起したユダヤ人たちを地下壕へ追い込んでいった。シュトロープは次のような報告書を書いている。 火は夜通し燃え、探しても見つからなかった屋根裏部屋や地下室に隠れたユダヤ人たちを次々といぶり出してくれました。何人ものユダヤ人が窓から飛び降りたり、シーツを使って滑り降りようとしていました。我々はこうしたユダヤ人たちも他の者たちと同様にその場で始末しました。 — 1943年4月22日のシュトロープの報告書 5月8日に蜂起の中心組織である「ユダヤ人戦闘組織」の司令地下壕を発見し、そのリーダーであるモルデハイ・アニエレヴィッツを殺害することに成功した。5月15日になると戦闘も散発的となり、5月16日にシュトロープは正式にゲットー解体完了を宣言し、その記念に大シナゴーグを破壊させた。 シュトロープの報告書によると「5万6000人のユダヤ人を捕えた。捕えた者のうち7000人が作戦中に死亡し、また移送中に6929人が殺害された。あわせて1万3929人が死亡した。捕えた5万6000人とは別に5000人から6000人が爆発・火災で死亡した」という。ただしこの数についてはシュトロープが自らの手柄を大きく見せかけるために行った誇張ではないかとする説もある。捕えられた者のうち生存していた者たちはトレブリンカ絶滅収容所、マイダネク、強制労働収容所に送られていったという。
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