ロバート (初代グロスター伯)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/02 09:13 UTC 版)
ロバート・フィッツロイ Robert FitzRoy |
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初代グロスター伯 | |
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在位 | 1121年頃 - 1147年 |
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出生 | 1090年頃![]() |
死去 | 1147年10月31日![]() |
配偶者 | メイベル・オブ・グロスター |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ノルマンディー家 |
父親 | イングランド王ヘンリー1世 |
初代グロスター伯ロバート(Robert, 1st Earl of Gloucester, 1090年頃 - 1147年10月31日)は、イングランド王ヘンリー1世の庶子である。出生地名を取ってロバート・デ・カーン(ロベール・ド・カーン、Robert De Caen)と呼んだり、「王の子」を意味するフィッツロイ(FitzRoy)のあだ名を付けることもある。
生涯
ロバートは父ヘンリーがイングランド王位を継承するより以前で未婚の頃に、ノルマンディーのカーンで生まれた。正確な誕生日と母の名前は伝わっていない。グロスターの領主ロバート・フィッツハモン(イングランド王ウィリアム1世の従兄弟)の娘メイベル・オブ・グロスター(フィッツハモン)と結婚し、1121年頃、グロスター伯の爵位を授けられた。
父ヘンリー1世が死ぬと、ヘンリーが後継者に指名したロバートの異母妹マティルダ(通称「モード王女」)と、実力でイングランド王位を獲得したスティーブン王の間で王位を巡る争いが起こった。ロバートは、スティーブン王への忠誠を放棄し、モードを支持する派の重鎮として活躍した。
1141年には、リンカーンの戦いでスティーブンを捕える功績を立てる。しかしまもなくスティーブンの支持者にウィンチェスターで敗れて逆に捕えられてしまい、モードは兄ロバートを助けるため、スティーブン王を交換に解放せざるを得なかった。
ロバートはその後もモード支持派として戦いつづけ、内戦状態が継続する最中の1147年10月に亡くなった。
子孫にイングランド王ジョンの最初の妻(即位前に離婚)イザベル・オブ・グロスター、スコットランド王ジョン・ベイリャルおよびロバート1世がいる。
子女
メイベル・オブ・グロスターとの間に以下の子女をもうけた。
- ウィリアム(1116年 - 1183年) - 第2代グロスター伯
- ロジャー(1118年頃 - 1179年) - ウスター司教
- ハモン(1122年頃 - 1159年) - トゥールーズ包囲の際に戦死
- リチャード(1125年頃 - 1175年) - クルリー領主
- マティルダ(1126年頃 - 1189年) - 第4代チェスター伯ラヌルフ・ド・ガーノンと結婚
- メイベル - オーブリー・ド・ヴィアーと結婚
- フィリップ(1130年頃 - 1148年) - クリクレード領主
以下の庶子がいる。
- リチャード(1142年没) - バイユー司教
- ロバート(1170年没) - グロスター城主
- メイベル - センヘニズ領主グリフィズと結婚
- トマス
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「ロバート (初代グロスター伯)」の例文・使い方・用例・文例
- 私はロバート・ジョンソンです
- 彼女は自分のノートからロバートの名前を消した
- 父親のほうのロバート・ブラウン
- ロバートは市長選に出馬した
- ロバートは詩の創作技量が落ちてきた
- ロバートは支店長からの受けが良い
- 人類初のアクアノートはベルギー出身のロバート・ステニュイです。
- クリスティンはロバートに説明しなければならないことがたくさんあります。
- ロバート・ハンセンが、旧ソ連に秘密情報を売りさばいた容疑で逮捕された。
- 彼らはロバートをボブと呼ぶ。
- 彼は父親の名をとってロバートと名付けた。
- 彼は自分の父親にちなんで息子をロバートと名付けた。
- 私は祖父によってロバートと名付けられました。
- 私の名前はロバートなので、皆は略してボブと呼びます。
- 私たちはロバートをボブと呼ぶ。
- 昨日ロバートの所に遊びに行った、彼の父はパイロットです。
- ロバートブラウン先生が来られました。
- ロバートは利益のほんの一部しかもらわなかった。
- ロバートは電話の途中で急に止めた。
- ロバートは週末は店で父を手伝ったものだった。
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