ロイヤル大賞
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「グラディアトゥール賞」の記事における「ロイヤル大賞」の解説
この七月革命の後、ルイ・フィリップ王のもとで馬種改良奨励協会が組織されフランスの競馬を統括することになった。会長は前述のヘンリー・シーモア=コンウェイ卿である。競走の名前は「ロイヤル大賞(Grand Prix Royal=王室大賞)」となった。王室大賞は5月に開催された。 1836年にはイギリスにならい、3歳馬のためにフランスダービー(ジョッケクリュブ賞)が創設された。初代フランスダービー馬となったのはシーモア=コンウェイ卿のフランク(Franck)で、フランクは翌年になって王室大賞に勝ち、フランスの二大レースを制覇した馬となった。その後、MorokとFitz Emiliusが両レースを制した。また、1840年に王室大賞を勝ったノーチリュ(Nautilus)はヴィットーリアの子で、母子制覇となった。ノーチリュは3歳、4歳、6歳のときにカドラン賞を3勝した。 結果的に最後の王室大賞となった1847年の優勝馬はプレデステニー(Predestinee)という牝馬だった。プレデステニーのもとの馬主はシャルル・ド・モルニ公爵である。モルニ公爵は後の皇帝ナポレオン3世の異父弟で、ロンシャン競馬場の建設やパリ大賞の創設に尽力した人物である。モルニ公爵は競馬仲間のオーギュスト・リュパンと、プレデステニーが5歳になる前に2万フランを稼ぐかどうかという賭けをした。プレデステニーは結局、2万フランを稼ぐことはなく、賭けに敗れたモルニ公爵はプレデステニーを売り払ってしまった。その後、秋にプレデステニーは王室大賞を勝ち、それだけで1万4000フランを稼いだのだった。モルニ公爵、リュパン氏ともフランスのG1競走にその名を残している。
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