レッドクラウドのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 10:04 UTC 版)
「レッドクラウド戦争」の記事における「レッドクラウドのその後」の解説
レッドクラウドはアメリカ白人にとっては「合衆国と大きな戦争を戦って勝った唯一のインディアン指導者」となった。しかし、それはスー族の文化を理解していない白人の思い込みであり、彼は単なる部族員であって、酋長でも指導者でもなく、むしろスー族にとっては裏切りものであった。 それでもその後の避けられない事態、すなわち保留地での保留地代理人との折衝では、公正な扱いを求めてインディアン担当部局と戦うことを選んだ。幾つかの条約についてのその有名な声明は彼と交渉する人々の言葉に向けたその姿勢を表している。「私は偉大なる父(大統領)の約束に辛抱強く耳を傾けたが、彼の記憶は足りていない。私は今、彼と共になした。これが私の言うべきことの全てだ。」 1868年以後、レッドクラウドは保留地に住み、部族の管理所に白人の保留地監督官から「レッド・クラウド管理所」の名を与えられ、家族を次々に役職につけ、「大指導者」のようにふるまって部族員から恨みを受けた。。インディアン戦争を戦った主要なスー族戦士よりも長生きし、1909年にパインリッジ保留地で死んで、そこに埋葬された。同じく「スポッテッド・テイル管理所」を与えられ、部族民の恨みを受けていた彼の友人のスポッテッド・テイルは、クロウ・ドッグに決闘を申しこまれて死んでいる。 1866年に戦死したフェッターマンやブラウンなどの軍人達はモンタナ州クロウ・エイジェンシーに近いリトルビッグホーン戦場跡国立記念公園の国立墓地に埋葬されている。
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