ルヴェーの危機回避能力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 22:00 UTC 版)
「1955年のル・マン24時間レース」の記事における「ルヴェーの危機回避能力」の解説
事故死したフランス人ドライバー、ピエール・ルヴェーはスポット契約でメルセデスに乗り、この年のルマンに出場していた。1952年のル・マン24時間レースではタルボ-ラーゴに乗り1人で23時間ドライブし続け優勝目前までいったが、疲労のためシフトミスを犯しエンジンを壊してリタイアしたという経歴を持つ。たなぼたで優勝したメルセデスのアルフレート・ノイバウアー監督は「ルマンに我々が復帰するときはいつでも我々の車に乗ってもらう」とルヴェーをねぎらい、その約束を守った。 しかし、大会前の練習走行のタイムから、49歳のルヴェーが最新型の300SLRを乗りこなせるのか疑問視されていた。スターリング・モスはマックリンとの接触について「もしルヴェーより若い人だったら結果は違ったかもしれない」と述べている。現場検証に立ち会ったマックリンは、自分の左側には4.9mのスペースがあり、通常の方法で抜くことができたはずだと述べている。しかし、実際に事故の瞬間を捉えた映像では突如左に大きくラインを変えたマックリンを回避できる程のスペースはほとんどなく、仮にドライバーがルヴェーでなくとも接触の回避は不可能だったとされている。 ルヴェーの後方にいたファンジオは著書『ファンジオ自伝』の中で「ルヴェーはマックリンのオースティン・ヒーレーの左側を通り抜けようと、必死の操作を試みたが、それは不可能であった」と述べている。接触の直前、ルヴェーは左手を挙げて後方に合図しており、ファンジオは「私が今も生きていられるのはルヴェーのおかげである」「私に警告するためにあげた手が、さよならをいうためにあげたように思える」と振り返っている。
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