ルワンダ愛国戦線(FPR)の形成
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「ルワンダ紛争」の記事における「ルワンダ愛国戦線(FPR)の形成」の解説
詳細は「ルワンダ愛国戦線」を参照 1973年にクーデター(ルワンダ・クーデター(英語版))により政権に就いた、フツのジュベナール・ハビャリマナは、ツチに対する種族融和政策を採った。そこでは、ツチは少数派として周縁化されていたが、政治活動に関与しない限りは弾圧されず、むしろ経済活動は推奨され、政府と良好な関係を持つツチの有力ビジネスマンも出現した。フツ・ツチ間の通婚も進み、両者は共存していた。 しかし、ウガンダでは、1959年のルワンダ革命やその後の騒乱、クーデターなどで国外脱出をしたルワンダ人ツチ系難民の子弟が、長期にわたり、難民キャンプでの生活を余儀なくされていた。彼らは、ウガンダでもバニャルワンダと呼ばれ差別されていた。かくして、彼らツチ系難民の多くの者が、ウガンダ内戦(英語版)(1981年 - 1986年)において反政府軍側について戦い、その勝利に貢献した。ツチ系難民の指導者、フレッド・ルウィゲマ(英語版)、ポール・カガメらは、ウガンダにおいて重要な地位を占めるようになった。 ウガンダ内戦が終結すると、彼らはルワンダ愛国戦線 (英:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。
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