メディシンロッジ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/01/25 14:03 UTC 版)
「ブラック・ケトル」の記事における「メディシンロッジ条約」の解説
1867年、それでも和平の望みを捨てなかったブラック・ケトルは、「メディシンロッジ条約」に調印する。「メディシンロッジ条約」は、現在のカンザス州のバーバー郡、メディシンロッジでカイオワ族、コマンチ族、カイオワ・アパッチ族、シャイアン族、アラパホー族ら平原インディアン部族と結んだ条約で、先ず10月21日にカイオワ族、コマンチ族と、次に10月28日にカイオワ・アパッチ族と、さらに同日にシャイアン族、アラパホー族とそれぞれ結んだもの。この条約で、インディアンの保留地が細かく決められた。 この条約における「署名」とは、文字を持たないインディアンに「×印」を書かせる、というものである。酋長は「調停者(ピースメイカー)」であり、「部族長」でも「代表」でもないのだが、白人は酋長のこの「×印」を部族員すべての総意と解釈している。 ブラックケトルはウタパイ・バンドの「ピースメイカー」として、白人と和平について努力を約束するだろうが、ウタパイ・バンドのなかの交戦派戦士はブラックケトルの意見に従う義務も必要もない。インディアンの社会に「命令する」という文化は無いからである。また、ウタパイ・バンド以外のシャイアン族にも、当然ブラックケトルに従う義務はない。シャイアン族の戦士たちは侵略者との戦いをやめなかった。 しかし、白人は「ブラックケトルがちゃんと命令しないからシャイアン族がいつまでも白人にたてつくのだ」、と思っている。サンドクリークの虐殺では、ホワイトアンテロープら、二人の酋長(チビントンや白人たちには大指導者に見えている)を首尾よく殺害している。ブラックケトルを「大指導者」と勘違いしている白人たちは、彼の抹殺を謀った。
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