ムスチスラフ1世とは? わかりやすく解説

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ムスチスラフ1世

(ムスチスラウ1世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/04 03:49 UTC 版)

ムスチスラフ1世
Мстислав I Владимирович
キエフ大公
在位 1125年 - 1132年

出生 (1076-06-01) 1076年6月1日
スモレンスク
死去 (1132-04-14) 1132年4月14日(55歳没)
配偶者 クリスティーナ・インゲスドッテル
  リュバヴァ・ザヴィジチ
子女 一覧参照
家名 リューリク家
王朝 リューリク朝
父親 ウラジーミル2世モノマフ
母親 ギータ・オブ・ウェセックス
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ムスチスラフ1世によって建てられたノヴゴロド近郊の聖ニコライ聖堂、大公の家族を描いた12世紀のフレスコ画が残る

ムスチスラフ1世Мстислав I Владимирович, 1076年6月1日 - 1132年4月14日)は、ノヴゴロド公(在位:1088年 - 1094年)、ロストフ公(在位:1094年 - 1095年)、ベルゴロド公(在位:1117年 - 1125年)、キエフ大公(在位:1125年 - 1132年)。「偉大なる」ムスチスラフとあだ名される。ウラジーミル・モノマフの長男。

生涯

1076年にスモレンスクに生まれる。1093年から95年までロストフ、そしてスモレンスクで過ごす。1111年には父ウラジーミルとクマン人(ポロヴェツ)に遠征する。1116年に再度遠征し、彼らの町を奪う。1125年、父の死に伴いキエフ大公位を相続する。1130年にチュヂ族討伐のために遠征。1132年に死去し、大公位は弟のヤロポルク2世に渡った。ムスチスラフの治世は大公国が統一と力強さを示した最後の時代となった。

子女

1095年にスウェーデン王インゲ1世の娘クリスティーナと結婚し、10人の子女をもうけた。

クリスティーナと死別(1122年1月18日)後、ノヴゴロド市長のドミトル・ザヴィジチ(ru)の娘リュバヴァと再婚し、3人の子女をもうけた。

先代
スヴャトポルク2世
ノヴゴロド公
1088年 - 1094年
次代
ダヴィド
先代
ウラジーミル2世モノマフ
キエフ大公
19代
1125年 - 1132年
次代
ヤロポルク2世




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