ベルカント・ソプラノへの転向
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「ジョーン・サザーランド」の記事における「ベルカント・ソプラノへの転向」の解説
リチャード・ボニングは当時の指揮者の主流とは独自に、ベルカント・オペラの研究やその再現に意欲を燃やしていた指揮者であった。ボニングはサザーランドの歌を聴いたときに、彼女が単なるドラマティック・ソプラノではなく、ベルカント・ソプラノとしての素質を持っていることを見抜き、ベルカント歌手へ転向するように彼女を説得し、彼女もそれに応じた。2人は1954年に結婚した。その後、サザーランドは夫ボニングの助けを受けて、ベルカント歌手としての道を歩み始める。 最初に彼女が世間の注目を受けたのは1959年である。彼女はコヴェント・ガーデンでドニゼッティのオペラ『ランメルモールのルチア』のタイトル・ロールを歌い(指揮はトゥリオ・セラフィン)、驚異的な大成功を収めた。その理由は、マリア・カラスとは異なり、高音域から低音域まで力強く、かつむらのない美しい声で困難な装飾歌唱を軽々と歌いきったことにある(それゆえに彼女は同郷の先人になぞらえて「ネリー・メルバの再来」と謳われることとなる)。そしてこの大成功を機に、1961年にはメトロポリタン歌劇場、ミラノ・スカラ座でもルチアを歌い、これを皮切りにベルカント・オペラ復活に自信を持つことになる。
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