ブータンの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 08:13 UTC 版)
1670年、プンツォ王は崩御(死亡)し、テンスン・ナムゲルが王位を継承した。テンスンは即位後、首都をヨクサムからラブデンツェに遷した。テンスンは議会と地方長官(ゾンペン)との間に対立が生じたのを見て、議会の定員を12人から8人に減らし、先住民のレプチャ族からも議員を出す妥協策を取った。 1706年、チャドル・ナムゲルの治世に、ブータン王がカリンポン一帯を奪い取った。父王テンスンのブータン人の妃から生まれた王女が王位継承権を主張したため、ブータンが介入の理由を得たからであった。チャドルはブータンの攻勢に耐え切れず、チベットに亡命した。だが、庇護者ダライ・ラマ6世が死亡したため、ブータンに屈服し、ブータン軍は撤退した。この間、ブータン人が多数入植したカリンポン地方はシッキム領土に戻ることはなかった。 1717年、チャドル王は崩御し、息子のギュルメ・ナムゲルが王位を継承した。その治世もまた、ブータン軍がしばしば侵攻したため、ラブデンツェの城塞化を図った。その際、ツォン族に強制労働を課し、彼らは同族のリンブー族の領域に逃げた。 1733年、ギュルメ王は嫡子無く崩御したが、ギュルメの尼僧が妊娠しており、死後に生まれた息子のプンツォ・ナムゲル2世が王位を継承した。
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