ブダイ・ラースローとは? わかりやすく解説

ブダイ・ラースロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/05 15:01 UTC 版)

ブダイ・ラースロー
名前
ラテン文字 Budai László
基本情報
国籍  ハンガリー
生年月日 1928年7月19日
出身地 ブダペスト
没年月日 (1983-07-02) 1983年7月2日(54歳没)
選手情報
ポジション FW/MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1948-1950 フェレンツヴァーロシュ
1951-1961 ホンヴェード
代表歴
1949-1959 ハンガリー 39 (10)
監督歴
1959-1967 ETI SC
1967-1979 コッシュトKFSE
1979-1980 フォーティ・トスSK
獲得メダル
オリンピック
1952 ヘルシンキ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ブダイ・ラースローBudai László, 1928年7月19日 - 1983年7月2日)は、ハンガリー出身の元サッカー選手サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワードミッドフィールダー

経歴

1950年代マジック・マジャールと呼ばれたハンガリー代表の一員。ずんぐりした体形ながら精力的かつ勇敢なプレーを持ち味とし、代表ではストライカーを務めるコチシュ・シャーンドルとのコンビネーションプレーを得意とするウインガーとして活躍した [1]1948年フェレンツヴァーロシュTCに移籍すると、翌1949年にリーグ制覇に貢献。1951年に同僚のチボル・ゾルターンやコチシュと共にブダペスト・ホンヴェードへ引き抜かれると、3度のリーグ優勝と1度のミトローパ・カップ優勝に貢献した。

ハンガリー代表としては、1949年5月2日の中央ヨーロッパ選手権、対オーストリア戦で代表デビューをすると[1]1959年に引退するまで国際Aマッチ39試合出場10得点を記録した[1]。また、1950年9月24日アルバニア戦では4得点(試合は12-0でハンガリーの勝利)を記録している[1]

マジック・マジャールの一員として1952年ヘルシンキオリンピック金メダル、1953年の中央ヨーロッパ選手権優勝に貢献、1953年ウェンブリー・スタジアムで行われたイングランドとの親善試合にも出場した。1954年FIFAワールドカップ・スイス大会では1次リーグの韓国戦、準決勝のウルグアイ戦での顕著な活躍に関わらず、決勝戦はフェレンツ・プスカシュの控えとなった。

また1958年FIFAワールドカップ・スウェーデン大会でも代表メンバーに選出されたが、出場機会を得ることは出来なかった。

脚注

  1. ^ a b c d Budai II (Bednarik) László (1928-1983)”. Aranycsapat. 2012年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月15日閲覧。




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