フラウィウス朝期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 17:32 UTC 版)
「第7軍団クラウディア・ピア・フィデリス」の記事における「フラウィウス朝期」の解説
68年のネロの自殺に次ぐ内戦では軍団はオトの指揮下に入り、軍団の大部分が対立勢力であるアウルス・ウィテッリウスとの戦闘に従軍、クレモナに急行するが間に合わず自軍は到着前に敗走してしまう。しかしウィテッリウスは第7軍団を処罰する事なく、そのままドナウ川駐屯地へ帰還。オトが自殺した後は東方で勢力を拡大しつつあったウェスパシアヌスを支持する。そしてウェスパシアヌスの命令を無視して西方に急行するマルクス・アントニウス・プリムスによって再びクレモナで戦闘、ウィテッリウスの軍に勝利する。この勝利でウェスパシアヌスはローマ皇帝の道を歩むきっかけを作った。 2世紀には軍団はバルカン半島のセルビア地方、古代ローマではモエシアと呼ばれた地域に駐屯していた。この地は86年にダキア人がローマ帝国領内に進攻してくるとドミティアヌスはドナウ川流域の軍団を再編成、これ以降第4軍団フラウィア・フェリクスともに駐屯していた可能性も指摘されている。88年には今度はローマ軍がダキアへ侵攻、攻勢になるが、ゲルマニア・スペリオル属州の総督ルキウス・アントニウス・サトゥルニヌスが反乱を起こし、この対応のためにこの対ダキア戦では完全な勝利となる事はできなかった。
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