フィヒテ追放後のイェナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 18:33 UTC 版)
「無神論論争」の記事における「フィヒテ追放後のイェナ」の解説
フィヒテがいなくなったイェナ大学は、1800年に教授資格を得たフリードリヒ・シュレーゲルとわずか23歳の若さで教授になったシェリングが哲学教壇の場に立っていた。共に先験哲学(超越論哲学)と題した講義をしたが、しかしシュレーゲルはわずか6週間で講義をやめ、ベルリンへ文学活動の場を求めて去っていた。一方、1801年には、ヘーゲルがイェナ大学へ招かれ、フィヒテがいなくなったイェナにおいてシェリングと共に哲学を担当していった。シェリングはその後もしばらく講義を続けたが、カロリーネとの結婚に踏み切り、1803年にイエナを去る。同年にヴュルツブルク大学が創設されると、ニートハンマーなどのイエナの著名な学者たちがそちらへ移っていった。ヘーゲルは一人哲学の講義を続けていたが、1806年のナポレオンの侵攻でイエナの街が戦火で廃れ、イェナ大学も一時閉鎖された。(精神現象学が完成したのは、この頃である。)混乱を避けるため、ヘーゲルはイェナを去った。このようにして、イェナにおけるドイツ観念論の世界は終わりを告げたのである。
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