フアン2世死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/04 08:05 UTC 版)
1479年にフアン2世が死に、レオノールが即位したが、彼女は即位後15日で死去した。フランスの後ろ盾を持つ幼い孫のフランシスコ・フェボが、母マドレーヌ・ド・フランスの摂政の下で即位した。カトリック両王は、フランシスコ・フェボの妹であるカタリナをアストゥリアス公フアンと結婚させようと圧力をかけるが失敗した。1483年にフランシスコ・フェボが夭折すると、カタリナが即位し、ジャン・ダルブレと結婚した。 1486年、フェルナンド2世はナバーラの前線に軍隊を送った。1488年にナバーラ王とカトリック両王によって結ばれたバレンシア条約では、カタリナ女王の同意なしに貿易のため国境が開かれること、スペイン軍のナバーラ駐留が決められた。カタリナとジャン・ダルブレの戴冠式は、カトリック両王の妨害で実現が遅れた。ナバーラとガスコーニュは独自の軍を持つことが禁じられ、ナバーラの知事や兵士たちはカトリック両王に忠誠を誓うよう強制された。カトリック両王の許可なしに、ナバーラ王の息子の結婚が決められないとされた。国内にスペイン軍が駐留した状態で、1494年1月13日、女王カタリナとジャン・ダルブレの戴冠式が挙行された。 1500年以降、ナバーラ王家の子孫とカトリック両王の家族との結婚が模索された。寡夫となったフェルナンド2世は、後添えとしてナバーラ王家の血を引くジェルメーヌ・ド・フォワ(レオノールの孫の一人でカタリナの従妹、フェルナンドの姪孫にあたる)を選んだ。
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