パンチパーマの考案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 20:52 UTC 版)
1970年代当時、男性の髪型といえば銀行員に象徴される七三分けか、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックに触発されてのスポーツ刈りが主流だったことから、永沼はそれらよりもファッション性に優れた髪型を研究。黒人の短い縮れ毛をヒントとして、当時は主に女性のカールに使われていたヘアーアイロンに自ら改造を重ねた末、パンチパーマを誕生させた。 この髪型は従来になかった力強さや斬新さで話題を呼び、1970年代から1980年代にかけて大流行に至った。全国理容生活衛生同業組合連合会などによれば、当時の理容業界は徒弟制度が色濃く残っており、理容技術は「見て盗むもの」とされていたため、永沼が講習に積極的だったこともパンチパーマの普及に一役買ったと見られている。 なお永沼自身は当初「これ以上ない髪型」として「チャンピオンプレス」と名付けたが、この名称は定着せず、「パンチの効いた男性らしさ」との意味でパンチパーマの名称が定着した。その後もテレビや映画のパンチパーマ姿の悪役などの影響でパンチパーマの印象が悪くなったこともあり、永沼の店ではこの名称ではなく当初通り「チャンピオンプレス」と呼ばれ、後には「ストリュームヘア」の名が用いられている。
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