ハリウッドからの挑戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)
「フューチュリティステークス (アメリカ合衆国)」の記事における「ハリウッドからの挑戦」の解説
2歳チャンピオン選出への影響力という意味では1980年代に創設された超高額賞金競走の影響が大きかった。アメリカの2歳戦は、春夏シーズンを中部や西部で行い、秋にベルモントパーク競馬場を中心としたニューヨーク地区へ戻ってきてその年のチャンピオンを決める、という流れだったのだが、資金の潤沢なハリウッドパーク競馬場は12月に新たな2歳戦としてハリウッドフューチュリティを創設した。一流の2歳馬を全米から集めるためにハリウッドパーク競馬場が用意した賞金は50万ドルで、これまで高額賞金で鳴らしてきたフューチュリティステークスの賞金が10万ドルだったので、フューチュリティステークスはすっかり霞んでしまった。 1982年の2歳戦は、東海岸で1頭の名馬が出現した。コウプラン(Copelan)はホープフルステークス、フューチュリティステークス、シャンペンステークスと、ニューヨーク地区の主要2歳G1を3連勝した。かつてセクレタリアートやアファームドですら成し遂げられなかった偉業で、シアトルスルー以来の無敗の2歳チャンピオンの誕生のはずだった。2歳チャンピオンどころか、年度代表馬の声もあがっていた。しかしコウプランは高額賞金を目指して12月のハリウッドフューチュリティに遠征し、5着に敗れてしまった。フリーハンデでは同じ126ポンドの評価だったが、この年の2歳チャンピオンはハリウッドフューチュリティを勝ったラヴィングボーイ(Roving Boy)になってしまった。 翌年にはハリウッドフューチュリティはG1格に認定され、賞金100万ドルになり、アメリカで最も賞金の高い競走となった。もちろん2歳戦として賞金が100万ドルとなる競走も史上初である。一方、フューチュリティステークスは賞金10万ドルのままだった。
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