ハミディイェの組織と影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 18:57 UTC 版)
「トルコ・クルド紛争」の記事における「ハミディイェの組織と影響」の解説
オスマン帝国は1891年にハミディイェを組織する。このハミディイェはクルド人、トルコ人、トルクメン人、ヨリュク人などで組織された非正規の騎兵部隊で、アナトリアの治安維持を担った。中でもクルド人の占める割合が圧倒的に高く、スンニー派・クルマンジー語話者・クルド人の参加は、帝国内での彼ら影響力を強めた。ハミディイェの主な任務はアルメニア人武装勢力との戦いであったが、民間人への攻撃も報告されており、1894年にはハミディイェ虐殺を起こしている。大佐クラスより上はトルコ人に占められていたが、アルメニア人に対する略奪、殺戮にはクルド人も積極的に関わっていたとの報告がある。アルメニア人に限らず、スンニー・クルド人の部族であってもハミディイェによる略奪の対象になることがあった。ハミディイェの部隊は部族単位で構成されており、ハミディイェを組織していない部族はライバル関係にある部族のハミディイェから乱暴を受けるということがあったようである。結果としてこのハミディイェのシステムはクルド人の部族同士の敵愾心、部族主義を煽ることとなり、クルド人のナショナリズムという視点から見るとマイナスの面があった。この影響は後のシャイフ・サイードの反乱のときに表面化し、この時アレヴィー派・クルド人は反乱に参加せず、それどころかトルコ側につくものさえいた。一方でこのシステムはスンニー・クルド人の団結をもたらし、若者にはリーダーシップを担う経験と軍事知識を与えた。
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